【東海道東京日本橋⇎横浜⇎藤沢⇎平塚⇎小田原間を相互する運転代行】
アクシヴの運転代行は、江戸時代で云う”籠屋”と同じく二人一組で息(粋)の合った呼吸と掛け声。そして技(職人)と考えております。各所、宿場には、華の御江戸へ夢持つ粋な旅人が草鞋を脱ぎ藤沢宿では遊行寺遊郭など旅人は明日へのエネルギーを蓄え、労を癒す場でもあったとの事。
草鞋(わらじ)を脱いで腰を下ろし泊まる宿場町は、大名や公家、勅使、旗本、役人などが宿泊する本陣や脇本陣、一般の旅人が泊まる旅籠(はたご)といった 宿泊施設とともに、伝馬や飛脚による公用の荷物の継ぎ立て業務を行う問屋場が置かれていました。
人や馬にかかる費用は宿場の町人や周辺農民の負担となりましたが、その代わりに租税が免除され、宿泊業や旅人の荷物運び によって一定の収入を得ることができたといいます。江戸時代では1635(寛永12)年 三代将軍家光によって参勤交代が義務 付けられると、街道は大名の行き来により、いっそうと賑わうようになり、宿場には商人、職人などが定住し、次第に都市の様相を呈する ようになっていったという歴史があります。
東海道の53の宿場のうちの神奈川領域にあったのは、川崎、神奈川,保土ヶ谷,戸塚,藤沢,平塚,大磯,小田原,箱根の9つ で、アクシヴではその53次のうちの藤沢から平塚が主な舞台となっています
【藤沢宿⇎平塚宿 豆知識】
●藤沢宿があったのは、現在の小田急線・藤沢本町駅周辺。八王子道(現 藤沢町田街道),鎌倉道 などの街道との分岐点で、戦国時代から北条氏が伝馬を置き、交通の要所でした。
1596(慶長元)年には、徳川将軍家の宿泊施設・藤沢御殿が築かれ,江戸時代中期以降は大山詣り(大山道)や江の島詣りの旅人の 拠点となりました。
●平塚宿は、北条氏が城郭を築いたことで発達した宿場。相模川を使った物資の集散地であり、中原往還(街道)や八王子道(現 藤沢町田街道)が 走る交通の要所として栄えました。通行人の険しい箱根山は天下の剣を越える為の大磯宿(小磯の宿 ※現大磯港 照ヶ崎海岸)との距離が約3里(12km ※藤沢駅〜平塚駅間の距離)と短いため、主に休憩所として利用されました。古い時代を想像しますと、昔の人は今のような産業も無く自動車やバイク、自転車なんてないので大変だったんだなと思います、きっと鍛えられて、足腰がしっかりしていたんでしょうね
●小田原・箱根宿 HP更新中
【東海道は日本の発展を支えた】
このように神奈川県域における東海道は、江戸時代から現代に至るまで、日本の発展を支えた随一の街道だったのです。
三波春夫さんじゃないですが,『お客様は神様でございます』という名言があります。アクシヴ理念アイデンティティーは、いまここでお話しさせていただいているの通り、現代のような自動車もない時代に苦労をされた昔の方に習い”大名,商人,庶民=現代のお客様として考えております”人で賑わう宿場町(街)を中心とした お酒の席を主に、昼間夕方のゴルフ場やBBQ会場、日程が先の挙式のご予約、ご宴会、ご法要、病院などのシーンを主に、安全、安心をモットーにお客様とお車をお運び致します。